くるま屋浅草は、人力車空間演出を行う“イベント出張専門”の人力車です。   

  

 

独特の雰囲気から人気を博している、人力車の歴史を辿っていきます。

■人力車について

人力車 【じんりきしゃ】

人を乗せて人力で引くくるま。

単に人力、俥、あるいは人車、腕車とも言います。  

俥夫 【しゃふ】

人力車を引いて走る人のことです。車夫の装いは、ズン胴(鯉口)または腹当を着け、股引(ももひき)をはき、まんじゅう傘をかぶるのが定番。また、草鞋または跣足袋を履いたり、雨天には合羽を、雪中には手甲をつけたりもします。

 

「俥」という漢字について

俥夫の「俥」という漢字は、もともと中国生まれの漢字です。 後の時代に、将棋をする際、敵味方をはっきりさせるために「香車」という駒の「車」に人偏をつけて、「俥」という漢字を作ったそうです。

■人力車の誕生と活躍

人力車は、1869年に鈴木徳次郎・高山幸助・泉要助ら3人が、東京で見た馬車から人力車を発想し発明したといわれています。

彼ら3人が翌年、東京日本橋で営業を開始したことから人力車の歴史が始まりました。

 

人力車を営業するにあたって東京府(現在の東京都)は、発明者の彼らに人力車の製造と販売の許可 (その際の条件は、人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合は処罰する事)を与え、彼らを「人力車総行司」と称しました。

人力車を新たに購入する場合には、この3人の人力車総行司のいずれかから許可をもらうことなりましたが、1873年「僕碑馬車人力車等諸税規則」が告布され、総行司の仕事であった車税の取り集めや検印は戸長の手に移ることとなったため、彼らは人力車総行司の権限を失ってしまいました。

 

人力車は誕生してから需要があった、移動が早い、時間の節約、運賃が手頃などの様々な理由から総行司人気は急速に高まり、人力車数は製造開始からわずか1年半後、東京府だけででなんと10820台。1975年には25038台にものぼりました。

■人力車の改良

人力車は最初の製品が造られてから絶えず改良が重ねられていきました。

 

衝撃を和らげる工夫として、客の座席と車輪の間にバネを入れたり、

鉄輪であった車輪はゴムタイヤとなり、質的にもかなり向上してきました。

 

その他、幌、梶棒、座席の形状、車輪の泥除けなども改良され、また1877年には松葉林三郎が発明した営業上便利なメーター付きの人力車ができました。

このように、より便利に、より顧客の満足感を得るために様々な改良を行って現在の人力車に至りました。

大阪錦絵新聞より「蒔絵人力車」

■欧米における歴史

結欧米では日本で人力車が使われ始める200年も前に、人力車のようなヴィネグレットと呼ばれる車が、17世紀から18世紀にかけてパリの街中で使われていました。

ヴィネグレットは一人で使え、かごに比べ負担が少ない、馬車に比べ安上がりだった事により使われ始めました。

 

ヴィネグレットはイギリスにも渡りセダン・カートと呼ばれ利用されていたようです。 この事から人力車は日本独特の文化ではなく、海外でも使われていたことが分かります。

■国外への展開

インドでは、商売をしていた中国人の商人達が1914年に人力車を乗物として使用できるように許可を申請しました。

これから、人力車は東南アジアの多くの大都市に広まったとみられます。

 

特に中国では日本製の人力車が爆発的に広まり、「黄包車」とも呼ばれていました。

さらに国産の人力車工場が各地に建てられ、全土に人力車が広まり、 上海には大小100を超える人力車工場があったとされます。しかし、数多く輸出されてきた人力車は時代とともに衰退していきました。そのなかでもカルカッタでは人力車が活況を呈しています。

■今現在の人力車

現在、人力車は全国に約380台あります。昭和初期頃をピークに減少し、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していません。

現在は主に観光地での遊覧目的に営業が行われています。

 

当初、京都、鎌倉といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や「無法松の一生」にちなむ門司港、有名観光地である中華街などに広がっていきました。

 

現在では、観光名所をコースで遊覧したのしむのが一般的です。また観光のほかに、イベントや結婚などの演出や、出張営業とした新しい形の人力車も盛んになってきています。

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